蘇った首里城の“地下”に今も...日本軍が沖縄戦の指揮執った『第32軍司令部壕』復興と共に凄惨な歴史も後世へ(FNNプライムオンライン)

6月23日は「沖縄慰霊の日」。1945年、旧日本軍による沖縄での組織的な戦闘が終結したとされる節目の日です。 毎年この時期に沖縄戦の取材を続けてきたジャーナリストの大谷昭宏さんが、2019年の火災か
■首里城7年越し再建へ...蘇る沖縄のシンボル 2019年10月31日に焼け落ちた、沖縄のシンボル・首里城。 あれから7年の月日を経て、首里城は復興し、完成間近に。首里城・正殿は、古文書の分析が進み、壁の色も装飾もより琉球王国の時代に近づいた。一般公開は11月と決まった。 首里城が燃えた当時も現地に入り取材を行った、ジャーナリストの大谷昭宏さん。今回、完成間近となった現地を訪ねた。 ジャーナリストの大谷昭宏さん: 「とても立派で見事。琉球瓦がどれだけ手に入るかも難しい問題だったが、なんとしてでも首里城を復元したいという思いが伝わってくる」 ■地下に眠る「旧日本軍 第32軍司令部壕」沖縄戦悲劇のきっかけ 華やかに蘇る首里城だが、その足元に広がるのは、戦争の記憶。 首里城の地下にいまも残る、第32軍司令部壕。太平洋戦争末期、アメリカ軍の侵攻に備え、日本軍が沖縄戦の指揮を執った場所だ。 首里城の地下10メートルから30メートル、全長1キロあまり、南北およそ375メートルの司令部壕には、1000人以上の兵士らがひしめき合っていたという。 壕内には今も、錆びた銃身やヘルメットがそのままに。落盤のおそれなど安全面に課題があり、一般公開は現在されていない。 ■沖縄戦を生き延びた97歳証言「司令部壕」公開を訴え その司令部壕の公開をめぐり、長年訴えてきたのが、沖縄戦を生き延びた瀬名波栄喜さん、97歳。その理由について、瀬名波さんは「沖縄の運命を決定づけたのが第32軍司令部壕だから」と語る。 アメリカ軍の激しい攻撃で、追い詰められた日本軍。劣勢は決定的となっていたが、1945年5月22日、本土決戦を遅らせるため、首里城地下の「第32軍司令部壕」の拠点を捨て、沖縄南部へと撤退した。 その決断により、沖縄戦は長期化することとなった。 多くの住民が巻き込まれ、犠牲者は9万4000人。県民の4人に1人が命を落とす惨事に。その中には、日本の軍人にアメリカのスパイと疑われ、殺された人もいた。 瀬名波栄喜さん: 「同じ沖縄の県民同士が殺し合うことが実際に起きたわけです。例えば、スパイでもないのにスパイ容疑でみじめな殺され方をした。現実にあったわけですよ。そういう“人間性喪失”、これが沖縄戦だと」 当時16歳だった瀬名波さんも、戦渦に巻き込まれた。 瀬名波栄喜さん: 「1945年3月23日からアメリカ軍の空襲が始まった。みんな山の中に逃げに逃げて、火がどんどん迫ってきて、これではそのまま焼死以外にないだろうということで、火と火の間を通って出ていったら、20〜30名のアメリカ兵が銃を持って待ち構えていた。思わず手を上げましたね。『生きて虜囚の辱めを受けず』という教育が、実際はいざという時には役立たなかった」
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